カンボジア ポル・ポト命日
4/15は、ポル・ポトの命日となります。
皆さんもご存じかと思いますが、ポル・ポトは、悪名高きクメール・ルージュのトップとして国民の大量虐殺を行いました。
下記の写真は、ポル・ポトが死亡した時の写真となります。1998年4月15日に亡くなりました。
上記は、ポル・ポトの墓になりますが、何者かにより骨は掘り起こされているようです。
今日は、ポル・ポトが、一体何をしたのか簡単に記載したいと思います。
1.ポル・ポト政権が誕生した背景
カンボジアは、元々フランスの植民地でした。このフランスからの支配に対して反仏主義が起こりました。その後、フランスは撤退し、革命主義が横行しました。
その後、ベトナム戦争の激化により、カンボジアにも多くの爆丸が投下され、主力産業である農業が潰滅状態となりました。この時点で200万人もの難民が発生したといわれています。
その後、アメリカ軍がベトナムから撤退しましたが、クメール・ルージュは、政府軍と戦いを続け、1975年4月15日に首都プノンペンを占領しました。
クメール・ルージュの猛攻により、アメリカのカンボジア大使及びアメリカ人の非難の模様が上記の写真となります。隣国のタイに避難しました。
2.ポル・ポトがしたこと
ポル・ポトは、1976年5月13日に首相になると、自給自足の生活を理想とし、学校、病院、工場、銀行も閉鎖し、貨幣さえも廃止しました。
そして都市部の住民を田舎に強制移住させ、食糧増産のため農業に従事させました。しかしながら作ったコメは武器調達のため輸出に回され、国民の大半が飢え、飢餓状態となります。このような政策に失敗をポル・ポトは顧みず、裏切り者やスパイがいるため政策が上手くいかないと思い始め、後の粛正につながります。
大量虐殺は、200万人とも300万人ともいわれています。
どれだけ処刑が残酷だったかは、トゥールスレン博物館等で見ることが出来ます。
上記の映画や本でも虐殺の内容を知ることが出来ます。
3.ポル・ポトの最後
1978年12月25日にベトナム軍の援助を受けて反ポル・ポト派が侵略します。所謂、カンボジア・ベトナム戦争です。この戦いにより、ポル・ポトは失脚し、ジャングルに逃げ込みました。その後ベトナムは、カンボジアを1989年の撤退まで支配下に置きました。
1998年4月15日にポル・ポトは心臓発作で死亡したといわれていますが、毒殺との説もあり、詳細は分かっていません。
こちらが、ポル・ポトが生前最後のインタビューと亡くなった場面となります。
4.暗黒の歴史を抱えたカンボジア
カンボジアでは、この悲劇を繰り返さないためにも中学・高校でこの惨劇のことを学ぶそうです。
この100年間でフランス、クメール・ルージュ、そしてベトナムと事実上支配をされていた期間が長いせいか、タイとかと比較すると暗いイメージがあります。
街灯などのインフラも未だに整っておらず、街自体が暗いです。またポル・ポト時代に笑顔が禁止されていたせいか、あまり笑顔を見かけないイメージがあります。
街でお年寄りを見かけると、あのポル・ポト時代を生き抜いたのだと思い、「よく生き残ったな」と、お年寄りを敬わなくてはと思ってしましまいます。
映画を見ると本当に日本人で生まれてよかったなと思ってしまいます。